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2019年4月20日(土)の夕方からの2時間(19時54分~20時54分)「出川哲朗の充電させてもらえませんか?京都宇治から琵琶湖近江神宮」編

 

出川さんが若かりし頃、尼さんと2人だけで修行した尼寺に、訪問して懐かしさに感激する場面が放映されましたね

 

 

出川哲郎さん尼寺修行

では、どのような経緯で出川さんは

 

何故?尼寺で修行して、何故辞めたのか?

 

そして

 

どのようにして今の芸人につながってたのか?探っていきましょう。

 

 

出川哲朗さんの尼寺修行の理由・きっかけ

出川哲朗さんの尼寺修行の理由・きっかけ

 

平成31年の2019年現在、55歳の出川哲朗さん。

 

出川さんの実家はNHK総合「ファミリーヒストリー」でも放映されましたが、横浜にある創業明治27年の老舗の海苔問屋でした。

 

その老舗で出川さんは昭和39年の1964年に生まれました。

 

当時は

幼稚園の時にはベンツで送迎してもらうなど、相当な裕福な暮らしをしていました。

 

ところが

 

出川さんが高校生の頃に、父親が投資で失敗して借金を負ってしまいます。

 

そこで、

 

高校卒業後に料亭で一流料理人になって借金を返そうと思ったことがきっかけで、

尼寺で修行することになりました。

 

 

なぜかというと

 

最初は

親戚の方知っている京都の有名料亭を紹介してもらいました。

 

けれども、

 

日本料理の登竜門的な料亭にすぐに素人は無理だという話になりました。

 

そこで

 

料亭とかかわりが深い尼寺で修行ができたら、その料亭に入れるという条件

尼寺に住み込みで修行することになったのです。

 

 

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出川哲朗さんが修行した尼寺の名前は?どんなとこ?料亭は?

 

出川/修行/尼寺

 

月心寺(げっしんじ)とよばれる臨済宗系のお寺です。

 

場所は、滋賀県大津市大谷にあります。

 

精進料理が有名なお寺でもあります。

 

その料理を「吉兆」創業者の湯木貞一さんが「天下一」と高く評価していました。

 

そのことから、出川さんが働こうとしていた日本料理の料亭は「吉兆」だと思われます。

 

※吉兆(きっちょう)大阪拠点の京料理・懐石料理・日本料理の高級料亭

 

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出川哲朗さんは尼寺でどんな仕事をしていたのか?

 

出川哲朗・尼寺

 

出川さんは、

 

辞めるまでの半年の間、結局一度も料理を作るということもなく、主に掃除などの雑用をしていました。

 

修行の身でもあるし、半年・6ヶ月の短い期間であれば当然と言ったら当然ですよね。

 

最終的には半年で辞めたのですが、

 

実は寺での修行が認められ、料亭で働くことを許されていたそうです。

 

 

 

出川哲朗さん尼寺の修業を半年で辞めた2つの理由・動機

 

 

出川哲朗さんの子どもの頃の夢はレーサー。

 

卒業文集には,将来の夢はレーサーと書くほどの車好きの子供でした。

 

 

尼寺で修行し始めたのも、料理自体が好きでもなく興味もなかったことも辞める一つの動機だったように思われます。

 

出川さん曰く

「修行中は尼さんと2人で生活すると期待をしていましたが、その尼さんはなんと60歳のおばあちゃんでした。しかも料理にもまったく興味がなく、おばあちゃん以外には話す相手もいないし気がおかしくなりそうでした」

 

と述べています。

 

18歳という若さなのに尼寺の修行で尼さんと2人きりの閉鎖的な環境。

 

そして

 

月に1度の休みは

 

映画館や映画村の撮影で映画や演技を一日見て過ごしていました。

 

そんな生活の中で、

 

「一体、自分はなにがやりたいのか」を考えるようになります。

 

矢沢永吉さんの「成りあがり」という本に影響も受けて、「役者になる」と将来の思いが定まったことが、一番の尼寺の修業を辞めた理由だそうです。

 

【出川哲朗さんが一番影響を受けた本】

新装版 矢沢永吉激論集 成りあがり How to be BIG (角川文庫)

 

 

目的だった料亭で働くことを許可されたにもかかわらず、寺の庵主様に泣きながら土下座をして、謝り半年で尼寺を去りました。

 

 

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尼寺を辞めた出川哲朗さんの「その後」

 

紆余曲折しながら

役者の道を目指した結果、役者にはならずに今の芸人のスタイルになりました。

 

尼寺修行辞める→自衛隊入隊を辞退→放送映画専門学院入学→劇団立ち上げ→役者→芸人

 

尼寺を辞めて横浜に帰ることになりましたが、

途中でやめて戻ることが気恥ずかしい思いがあって地元に帰れない。

 

また、

 

住むところもないので、衣食住が揃っている自衛隊を受けてたら合格したそうです。

 

ただし、

親戚から諭されて、結局は自衛隊には行きませんでした。

 

その後は

 

半年働いてお金を貯めて、

演劇をするために横浜にある横浜放送映画専門学院に入学しました。

 

その学院で同期のウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)などに出会っています。

 

卒業後には劇団「SHA・LA・LA』を立ち上げて座長となります。

 

同級生だったお笑いコンビ・ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)、入江雅人さんがメンバーでした。

 

 

そして驚くことに

目標の役者・俳優になって、1986年に『君は裸足の神を見たか』で映画デビュー。
映画『男はつらいよ』シリーズ5作品に脇役で出演しています。

 

その後は

ウッチャンナンチャンの番組に登場したのがきっかけで、今ではタレントとして芸人として活躍しています。

 

 

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【まとめ】出川哲朗さんの尼寺修行に学ぶ

 

人の人生は本当に、わかりませんよね。

 

 

出川哲朗さんは、尼寺で半年修行することで「人生を深く考える」ようになりました。

 

仕事を辞めるほどの熱い思いが湧いてきました。

 

尼寺での修行の末に本当の将来の夢・希望が見つかって、

役者を目指し始めたことが、今の芸人につながっているのです。

 

 

「辞めたくなるほど働く」ということは、人生には1度は必要なかもしれませんね。

 

 

ひたすら働いて、「本当にこれでいいのか?」と疑問を持つことも大切なことです。

 

このことで、出川哲朗さんは人生で色々と頑張っていたのが良くわかりました。

 

 

 

【追記】

出川さんが修行した尼寺の庵主さんが、とても興味深い人生を送ってこられた方です。

自分で「最大のミステリーが自分の人生」と本で述べられている 破天荒な尼さんでした